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福岡高等裁判所那覇支部 昭和52年(ネ)58号 判決

控訴人 国

代理人 渡嘉敷唯正 幸喜令雄 比嘉俊雅 ほか三名

被控訴人 豊田益市 ほか二名

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人豊田益市は、控訴人に対し、別紙一(図面)記載のA、B、C、D、E、F及びAの各点を順次結んだ直線内の土地(以下「本件土地」という。)上にあるブロツク塀を収去して本件土地を明渡せ。

三  被控訴人砂川栄一、同砂川泰知、別紙二記載の選定者下地春徳は、控訴人に対し別紙一(図面)記載のA、B、E、F及びAの各点を順次結んだ直線内の土地上にある天幕小屋(以下「天幕小屋(甲)」という。)を収去して本件土地を明渡せ。

四  別紙二記載の選定者宮城貞子及び同神里信子は、控訴人に対し、別紙一(図面)記載のB、C、D、E及びBの各点を順次結んだ直線内の土地上にある天幕小屋(以下「天幕小屋(乙)」という。)を収去して本件土地を明渡せ。

五  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

一  控訴人は主文同旨の判決と仮執行の宣言を求め、被控訴人らは「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

二  当事者双方の主張及び証拠の関係は次に付加、訂正、削除するほか原判決事実摘示と同一であるから、これにこれを引用する。

1、2 <略>

3  当事者の主張及び証拠を次のとおり付加する。

(一)  控訴人の主張

(1) 時効取得

かりに主位的主張が認められないときは、控訴人は次のとおり本件土地所有権の取得時効を援用する。

米軍は昭和二三年四月七日付で米国海軍軍政府布告第七号「財産の管理」を公布し、国有財産の管理を開始した。

本件土地については、戦前沖繩県が旧道路法に基づき県道「金武、普天間線」として一般公衆の用に供し、終戦後も旧県道敷として一般公衆の用に供されており、付近住民もこれを認めていたので米国民政府財産管理官(以下「財産管理官」という。)は右布告の公布後間もなく、これを国有財産として、そのまま道路として維持する方法で管理していたが、昭和二六年四月一日付で「土地所有権証明書」が発行され、公図が作成されるに及んで本件土地は公図に無番地の道路として表示する方法により管理していた。ところが昭和二八年頃に至つて本件土地所有権の帰属をめぐつて紛争が発生したので、財産管理官は国有財産の範囲、私有地との境界を明確にするため本件土地の部分については、現地を実測したうえ図面を作成し、昭和三五年一月二七日付をもつて「管理証」を作成した。

右のとおり、本件土地については財産管理官がこれを管理していたが、当時の米国の沖繩統治の性格からして同管理官は日本国の機関ないしは代理人として管理占有していたということができるから、日本国は同管理官を通じて本件土地を間接的に自主占有していたものであり、右占有については過失はなかつた。

そうすると国は布告七号が公布された昭和二三年四月七日か遅くとも所有権証明書が交付された昭和二六年四月一日から一〇年を経過した日において本件土地を時効により取得したことになる。

(2) 占有保持の訴

旧県道敷地は国の所有であるが、アメリカ合衆国が沖繩を統治していた間は前記のとおり財産管理官がこれを管理占有していたが、復帰に伴い日本政府に引継がれて国がその占有を承継した。

ところで、旧県道のうち、復帰前において沖繩の道路法の規定により、琉球政府道又は市町村道として路線の認定がなされていた道路については、復帰後はそれぞれ沖繩県道又は当該市町村道と認定されたものとみなし、(沖繩の復帰に伴う特別措置法八七条)、当該道路部分の敷地については国からその道路管理者である地方公共団体に無償貸付けがなされたものとみなす取扱いとなつた(同法八八条)。その結果国は復帰後は、当該無償貸付けをした部分の道路敷については、当該地方公共団体を通じて間接的に、その余の部分については直接に、これを管理占有することとなつた。

本件土地を含む旧県道敷については、昭和四四年六月三〇日付で沖繩市が現在の県道二〇号線(旧琉球政府道二〇号線)の接点を起点とし国道三三〇号線(旧軍用道路二四号線)の接点を終点とする延長二七八メートルを沖繩市道五号線として路線認定し、(昭和四四年六月三〇日告示第二二号)、同年一〇月七日付で供用開始しているが、本件土地部分についてはその地上に妨害物件があるため、道路の区域決定及び供用開始の手続がとれない状態にある。したがつて国は本件土地については直接これを占有し、現在に至るまで占有を継続している。

控訴人の主位的請求原因で述べたとおり被控訴人ら及び別紙二記載の選定者らは本件土地上にそれぞれ工作物等を所有又は設置していずれも控訴人の本件土地の占有を妨害している。

よつて控訴人は占有権に基づき被控訴人らに対し、請求趣旨記載のとおり右工作物等を収去して本件土地を明渡すことを求める。

(二)  被控訴人らの認否

(1) 時効取得について

財産管理官が、本件土地を日本国有財産として占有してきたこと、同管理官が日本国の機関ないしは代理人として日本国有財産の管理業務を行つていたこと及び日本国が同管理官を通じて本件土地を間接的に自主占有していたことはいずれも否認する。

控訴人が昭和二三年四月七日か、遅くとも昭和二六年四月一日から一〇年を経過した日に本件地を時効取得したとの主張は争う。

(2) 占有保持の訴について

沖繩市が現在の県道二〇〇号線の接点を起点とし、国道三三〇号線の接点を終点とする延長二七八メートルを沖繩市道五号線として路線認定したこと、昭和四四年一〇月七日付で本件土地を除く右認定道路の供用開始がなされたこと及び右認定道路が旧県道敷であるとの点についてはいずれも不知。本件土地についての道路としての供用開始がなされなかつた事実は認め、国が本件土地を直接占有していること及び現在まで占有を継続していることは否認する。

被控訴人砂川栄一、同砂川泰知を除く他の者が控訴人主張のとおりの工作物等を所有又は設置して本件土地を占有していることは認め、右被控訴人らが本件土地の占有をしていることは否認する。

(三)  証拠 <略>

理由

一  主位的請求(所有権にもとづく妨害排除)について

1  控訴人が旧県道敷地を所有していることは控訴人と被控訴人豊田との間において争いがなく、控訴人とその余の被控訴人らとの間においては<証拠略>によりこれを認めることができ、これに反する証拠はない。亡豊田幸哉が昭和三八、九年頃仲本及び金城から一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地を買い受け、その所有権を取得したことは、控訴人において自認するところであり、右豊田幸哉が本件土地上にブロツク塀を構築して本件土地を占有していたところ、昭和四九年三月一三日死亡し、被控訴人豊田が相続により、右一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の各土地の所有権並びに本件土地上のブロツク塀の所有権を取得し、右豊田幸哉の訴訟上の地位を承継したことは、控訴人と被控訴人豊田との間に争いがなく、又被控訴人砂川栄市、同砂川泰知及び別紙二記載の選定者下地春徳が共同して天幕小屋(甲)を、別紙二記載の選定者宮城貞子及び同神里信子が共同して天幕小屋(乙)をそれぞれ設置して本件土地を占有していることは、控訴人と豊田を除くその余の被控訴人らとの間に争いがない。

2  そこで本件土地が控訴人所有の旧県道敷に含まれているのか、又は被控訴人豊田所有の一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地に含まれているかにつき以下に検討する。

(一)  本件土地付近一帯の形状が今次大戦の戦禍及び戦後の米軍の施設建設等によつて戦前のそれと全く変貌し、同地域の公図も消失したことは当事者間に争いがない。

そして、<証拠略>によると、次の事実が認められる。

昭和二三年頃、本件土地付近一帯の土地を調査するため、土地調査委員が任命され、右委員が測量をして公図を作成したが、本件土地の西側の一里根原一帯は米軍用地で立入が禁止されていたため、軍用地の周囲のみを測量し、その測量面積に合致させるべく、地主が申告した土地の総面積を各申告面積に応じて比例配分し、更に土地の形状も申告どおりに測量図面にあてはめていき、後から申告してくる地主が現われたときは、その都度右作業をやり直すといつた過程を経て公図が作成されたこと、他方、本件土地の東側の胡屋原一帯は地主が指示する土地の各範囲を測量して公図が作成されたことがそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(二)  <証拠略>によれば、昭和三三年頃になつて本件土地の西側である一里根原の土地所有者である金城及び仲本と東側の胡屋原の地主神村との間において本件土地をめぐつて紛争が生じ、裁判にまで発展したこと、その際に戦前からの残存物を頼りに旧県道敷の位置を確定するための調査がなされ、更に、昭和四一年には米国民政府財産管理課から旧県道敷について地籍図面訂正申告がなされたこと、右申告以前の先に認定したような過程を経て作成された公図(以下「旧公図」という。)においては、一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地は旧県道敷の西端に接し、本件土地は右両土地の一部分であるように表示されていること、ところが右申告書によれば、旧県道敷の位置は、旧公図の記載より本件土地附近において西側へややずれる旨の表示がなされていること、しかしこれにより地積が減少する立場にある関係地主の同意は得られておらず、また右申告に際しては米軍が撮影した航空写真(甲第三号証)、残存している旧県道の側溝、暗渠等(以下「原形」という。)及び附近の地主の説明等を根拠にして訂正すべき境界線が導き出されていること、以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(三)  そこで本件土地が旧県道敷に含まれるか否かを判断するについての資料となる各証拠について次に検討を加えることとする。

(1) 本件土地付近の原形について

<証拠略>を総合すると、別紙図面のソ、ツ、ネの各点を結ぶ線上には旧県道の側溝が存在しており、又その東側のル点附近には旧県道沿いに植えられていた松並木の切株があり、チ点とリ点を結ぶ線の中間附近より、リ点寄りの部分には旧県道と接していた宅地の竹垣の根つこが存在していること及び右チ点とリ点を結ぶ線の中間附近からレ点とソ点を結ぶ線にむけてやや直角に旧県道の下に付設されていた長さ約三間(約五・四五メートル)の暗渠の跡があること、またニ点とI点を結ぶ線上には旧県道に接していた宅地の塀や石垣の基礎が残つていること、以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(2) 航空写真について

<証拠略>によると、甲第三号証、同第二七号証の九及び同号証の一八はいずれも航空写真であるが(甲第二七号証の一八は二万五〇〇〇分の一の地形図に合わせて平均調整して作られたモザイク写真を一万分の一に拡大したものであり、甲第三号証及び同第二七号証の九は右甲第二七号証の一八を更に拡大したものと認められる。―以下いずれも「航空写真」という。)、右航空写真は垂直写真であつて、原写真を拡大又は縮小しても幾何学的な相似関係は保たれるものであること、又垂直写真の性質上、地上被写体の比高が著しいと撮影された写真画像との相似性が著しくくずれるが、本件土地付近の比高は国土地理院発行の国土基本図(甲第二七号証の一七)によると、最大比高は約一メートルであるから、比高による偏位は無視できること、したがつて右航空写真は戦前の地上の形状と正しい相似性を保つていると認めることができ、又甲第一二号証のA、C、Eの各点を結ぶ線、B点とH点付近を結ぶ線、I、J、Kの各点を結ぶ線(いずれも前記認定のとおり旧県道の側端と認められる。)と右航空写真の旧県道の当該部分を重ね合わせることができる点からみても、右航空写真の正確度は高いことが認められる。

(3) 甲第一二号証について

<証拠略>によると、甲第一二号証は甲第二七号証の一八の航空写真を基にして作成した三〇〇分の一の図面と平板測量による三〇〇分の一の実測図を重ね合わせて作成したものであり、A、C、Eの各点を結んだ線とB点とH点付近を結んだ線が前記認定のとおり戦前の旧県道敷の側端あると認められるので、甲第一二号証の右各地点から南側のゴヤ十字路に至る旧県道を示す線は前記航空写真との相似性から推定してかなり正確度は高いと認められる。

(4) 旧公図について

前記2の(一)及び(二)で認定したように、旧公図によると、一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番の一各土地は旧県道敷の西端に接し、本件土地は右両土地の一部であるように表示されており、<証拠略>によると、旧公図の県道敷は訂正申告後のそれ(甲第一二号証の旧県道敷に同じ。)に比較して本件土地付近において約三メートル東側に所在していることになつている。

ところで、旧県道敷の東側の胡屋原一帯の旧公図の作成経過は地主が指示する土地の範囲を測量してなされたものであることについては、2の(一)で既に認定したところであるが、旧県道敷が旧公図に示された位置より西側にずれると一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の各土地と旧県道敷をへだてて接する胡屋原一番及び同二番の各土地の面積はその分だけ増加することになるから、右各土地においては地主の指示した範囲と異る結果となり、不都合が生ずることになる。

しかしながら、<証拠略>によると、旧公図作成当時胡屋原一番及び同所二番の各土地の西側が旧県道と接する部分には側溝その他県道と私有地の境界の目印となるようなものは一切残存せず、したがつて右付近においては胡屋原一番及び同所二番の土地と旧県道敷との境界は不明であつたことが認められること、又<証拠略>によると、当時使用した測量器具はきわめて粗末なものであつたことが認められること等の事情を考慮すると、前記地主の指示が必ずしも正確なものであつたと認めることはできない。

以上検討したところによると、旧公図の正確性についてはかなり疑問があるといわねばならない。

3  前記2の(三)の(1)で認定した本件土地付近の原形、航空写真及び甲第一二号証の図面を総合して判断すると、本件土地付近の旧県道部分は別紙一(図面)のワ、カ、ヨ、タ、レ、ソ、ツ、ネ、ル、ヌ、リ、チ、ト、ヘ、ホ、ニ、ワの各点を順次結んだ直線内の部分であることが明らかであり、本件土地は右旧県道部分に含まれると認めるのが相当である。

二  以上によると控訴人のその余の主張につき、判断するまでもなく、被控訴人ら及び別紙二記載の選定者らは、控訴人に対し、それぞれ請求趣旨記載のブロツク塀及び天幕小屋等を収去して本件土地を明渡す義務があるといわねばならない。

三  そうすると控訴人の本訴請求は正当として認容すべきところ、これと結論を異にする原判決は失当で、本件控訴は理由があるからこれを取り消し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九六条、九三条を適用し、なお仮執行の宣言については相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 門馬良夫 比嘉正幸 新城雅夫)

別紙一(図面) <略>

【参考】第一審判決

(那覇地裁コザ支昭和四八年(ワ)第五八号昭和五二年九月二二日判決)

主文

原告の被告らに対する各請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

(原告の請求の趣旨)

「1 被告豊田清子、同豊田益市、同豊田朝子、同豊田紀明及び同玉那覇三智子(以下、右被告五名を「被告豊田ら」という。)は、原告に対し、別紙一(図面)記載の(A)、(B)、(C)、(D)、(E)、(F)及び(A)の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地(以下、「本件土地」という。)上にあるブロツク塀を収去して本件土地を明渡せ。2 被告砂川栄市、同砂川泰知、別紙二記載の選定者下地春徳及び同佐和田恵亮は、原告に対し、別紙一(図面)記載の(A)、(B)、(E)、(F)及び(A)の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地上にある天幕小屋(以下、「天幕小屋(甲)」という。)を収去して本件土地を明渡せ。3 別紙二記載の選定者宮城貞子及び同神里信子は、原告に対し、別紙一(図面)記載の(B)、(C)、(D)、(E)及び(B)の各点を順次直線で結んだ範囲内の土地上にある天幕小屋(以下、「天幕小屋(乙)」という。)を収去して本件土地を明渡せ。4 訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決及び仮執行の宣言。

(請求の趣旨に対する被告らの答弁)

「主文と同旨」の判決。

(原告の請求原因)

一 コザ市(現在の沖繩市)字胡屋所在の旧沖繩県道敷(以下、「旧県道敷」という。)は、今次大戦後琉球米国民政府の管理下にあつたが、沖繩の本土復帰後は原告が所有管理することになつたところ、本件土地は旧県道敷の一部であるから原告の所有である。本件土地が旧県道敷の一部であるとする根拠及び一部でないとする被告らの主張が理由がないことを詳述すれば、左のとおりである。

1 本件土地付近一帯は、今次大戦における戦災及び戦後における米軍の施設建設等により、戦前と一変したばかりか、その一帯についての公図も消失した。殊に本件土地の西側の沖繩市字胡屋一里根原(以下、「一里根原」という。)一帯の土地は、戦後米軍の資材集積所として使用され、昭和二八年頃までは立入禁止となつており、戦前の土地の境界を示すような物は全く失なわれた。右事情を反映し、昭和二三年頃作成された右一里根原一帯についての公図は、米軍施設内に土地を有すると称する者の申請に基づき、その記載による土地の位置、形状、面積及び道路の位置、形状等を図面上にはめこんで完成された、いわゆる談合図面である。その後昭和二八年に米軍から返還を受けた後に、地主らは現地において集団和解方式で土地の配分を行なつて利用している。したがつて、右公図は現況とも異なるし、戦前の土地の形状を表示したものでもなく、本件土地の所有関係を解明するには何らの参考にもならない。

2 ところが、本件土地付近一帯のうち東側の沖繩市字胡屋胡屋原(以下、「胡屋原」という。)一帯の土地は、右一里根原一帯とはやや異なり、戦災を免れた建物、道路の側溝及び暗渠等が残存しており、しかも戦後直ちに住民の帰住が許された。そこで胡屋原一帯についての公図は戦前の土地の形状を反映して作成され得るはずであり、現にそれは一里根原に関する談合図面に比べれば相当正確ではある。しかし胡屋原一帯についての公図作成に際し、土地所有権委員が格別の理由もなく隣接地主の申告がないままに旧県道敷の位置を決定したためか、公図上では、別紙一(図面)の「道路」と表示された地域より本件土地付近において東側にずれて旧県道が位置するように記載されている。別紙一(図面)に「道路」と表示されている地域は現在道路として利用されており、かつ戦後から今日まで被告らを除く近隣の地主らの同意の下に旧県道と同一の道路であるとして利用されているのである。したがつて、旧県道敷に関しては右公図には不正確な部分があり、別紙一(図面)に「道路」と表示されている地域が旧県道敷であり、本件土地は現在原告所有の旧県道敷上にあるものである。

3 本件土地付近の現況についての三〇〇分の一の実測図と、戦時中米軍が撮影した本件土地付近の航空写真を図化したものとを、現在も残在している戦前の道路の側溝、暗渠等を基準にして重ね合わせて図面を作成したところ、旧県道敷は別紙一(図面)の「道路」と表示された部分に一致し、本件土地は旧県道敷に含まれることが判明する。

4 昭和二八年頃までは本件土地をめぐる紛争はなかつたが、それは一里根原一帯の土地が立入禁止であつたからである。それが返還され談合図面が作成された後には、一里根原一四〇六番の土地所有者である訴外金城恵助(以下、「金城」という。)及び同所一四〇五番の土地所有者である訴外仲本松次(以下、「仲本」という。)が右談合図面を根拠に一里根原地帯から順に東側へと土地を設定することにより、右各土地の東端が本件土地の東端の別紙一(図面)記載の(D)、(E)及び(F)の各点を順次直線で結んだ線上であると主張し始めて混乱が生じた。亡豊田幸哉は、昭和三八年五月二九日、右仲本からその一里根原一四〇五番の土地の一部を分筆の上、また、昭和三九年八月一八日、右金城から同じく同所一四〇六番の土地の一部を分筆の上、それぞれ譲受けて同じ主張をしているものである。

5 被告らは、胡屋原一番の土地と旧県道敷との境界を示す石が存したと主張するが、前記金城及び仲本がそれを問題にした形跡のない点から推し測ると、右事実の存在は疑わしい。

二 亡豊田幸哉は、本件土地上にブロツク塀を構築して本件土地を占有していたところ、昭和四九年三月一三日死亡し、被告豊田らが右亡豊田幸哉の訴訟上の地位を承継した。

三 被告砂川栄市、同砂川泰知、別紙二記載の選定者下地春徳及び同佐和田恵亮は、共同して天幕小屋(甲)を、別紙二記載の選定者宮城貞子及び同神里信子は、共同して天幕小屋(乙)を、それぞれ設営して本件土地を占有している。

四 よつて、原告は、本件土地の所有権に基づき、被告ら及び別紙二記載の選定者らに対し、本訴請求に及ぶものである。

(請求原因に対する被告豊田らの認否)

一 請求原因第一項本文の事実中、本件土地が旧県道敷にあることは否認し、その余の事実は認める。同項1ないし5については、本件土地付近一帯の形状が今次大戦により全く変形し、公図も消失したことは認め、その余は左記主張に反する部分を否認する。

胡屋原一帯についての公図は、戦後の土地所有権及び地籍確定作業により作成され、付近住民はこれを信頼し、昭和二八年頃までは本件土地をめぐる紛争は生じなかつたが、胡屋原一番の土地所有者である訴外神村松(以下、「神村」という。)が右土地と旧県道敷との境界を示す戦前から存した石を無視して別紙一(図面)の「津波古商店、上原精肉店、中山商店」と表示した部分に家屋を建築し始めた頃から混乱が生じたものである。右のように胡屋原一帯についての公図は、付近住民大部分の信頼を得るような正確なものであり、これによれば旧県道敷は本件土地付近においては別紙一(図面)の「道路」と表示された部分より三メートル程東側に所在したことになり、本件土地は旧県道敷ではなく、一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地の一部分である。また原告が請求原因第一項3で主張する複合図面は、正確性において種々の疑いがある。

二 同第二項の事実は認める。

(請求原因に対するその余の被告らの認否)

請求原因第一項の事実は知らないが、本件土地付近の公図が今次大戦によつて消失したこと及び同第三項の事実は認める。

(当事者双方の証拠関係) <略>

理由

一 原告が旧県道敷を所有していることは、原告と被告豊田らとの間においては争いがなく、原告とその余の被告らとの間においては、<証拠略>により認められ、これに反する証拠はない。他方、亡豊田幸哉は、昭和三八、九年頃、仲本及び金城から一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地を買い受けてその所有権を取得したことは、原告において自認するところである。そこで、本件土地が原告所有の旧県道敷にあるのか、原告の所有でない一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地の一部分であるのかを順次検討する。

二 本件土地付近一帯の形状が今次大戦における戦災及び戦後における米軍の施設建設等によつて全く変形し、戦前とすつかり変わつてしまい、同地域の公図も消失したことは当事者間に争いがない。そして、戦後昭和二三年頃に公図が作成されたが、本件土地の西側の一里根原一帯は米軍用地で立入禁止であつたため、軍用地の周囲のみを測量し、その測量面積に合致させるべく地主が申告した土地の総面積を各申告面積に応じて比例配分し、さらに土地の形状も申告どおりに測量図面にあてはめていき、後から申告してくる地主が現われる場合には、その都度右作業をやり直すといつた過程を経て作成されたこと、他方、本件土地の東側の胡屋原一帯は地主が指示する土地の各範囲を測量して公図が作成されたこと、以上の各事実は、<証拠略>によつてこれを認めることができ、これに反する証拠はない。

その後、昭和二八年頃までは本件土地をめぐる紛争はなかつた(原告と被告豊田らとの間においては争いがない。)が、<証拠略>によれば、その後、本件土地の西側である一里根原の土地所有者である金城及び仲本と東側の胡屋原の地主神村との間において本件土地をめぐつて紛争が生じ、裁判にまで発展したこと、その際に戦前からの残存物を頼りに旧県道敷の位置を確定するための調査がなされ、さらに昭和四一年には米国民政府財産管理課から旧県道敷について地籍図面訂正申告がなされたこと、右申告以前の前段認定のような過程を経て作成された公図においては、一里根原一四〇五番一及び同所一四〇六番一の土地は旧県道敷の西側にこれと接し、本件土地は右両土地の一部分であるように表示されていること、ところが右申告書によれば、旧県道敷の位置はそれまでの公図の記載より本件土地付近において西側へややずれる旨の表示がなされていること、しかしこれにより地積が減少する立場にある関係地主の同意は得られておらず、また右申告に際しては米軍が撮影した航空写真(甲第三号証)、旧県道敷であつたことを示すもので、現在でも残存している側溝、暗渠、付近の地主の説明等を根拠にして訂正すべき境界線が導き出されていること、以上の各事実が認められ、これに反する証拠はない。

ところで、本訴が以上のような状況下にあつた昭和四八年に提起されたことは記録上明らかであるが、原告は本訴において、その主張を積極的に裏付ける最大の拠り所として、右航空写真及び現在でも残つている戦前の原形部分及び付近の地主らの説明等を根拠に作成した甲第一二号証(図面)を提出している。

三 しかしながら右認定のとおり、本件土地付近はほとんど原形をとどめない程の戦災を蒙り、しかも公図も消失してしまつたのであるから、手懸かりとなるべきものはほとんど無く、地主らの記憶のみに大きく依存して事案を解決しようとすることに妥当でないといわざるを得ない。従つて<証拠略>中には、原告主張事実に沿う記載又は供述部分があるが、これらの評価に際しては以上のような点に配慮しなければならないし、さらに<証拠略>にはこれと異なる記載部分があるので、それらに照すと、右各証拠のみによつて、直ちに原告主張事実を認めることは躊躇せざるをえない。

次に、甲第一二号証について検討するに、<証拠略>によれば、まず、米軍が昭和一九年に本件土地付近を撮影した一万分の一の航空写真を焼き増しにより一二〇〇分の一に拡大し(甲第三号証)、また、元の航空写真を図面に写し取つたものを一二〇〇分の一に拡大して、両者を対照して、両者が一致した後に図面をさらに三〇〇分の一に拡大したこと、他方で、本件土地付近の三〇〇分の一の現況測量図面を作成し、残存している戦前の側溝、暗渠、石垣、橋の欄干の所在場所を同図面の相当地点に印したところ、こうしてできた右二枚の図面について、後者の図面に印された地点を前者の図面の相当部分と重ね合わせて一枚の図面にすることによつて作成された図面が甲第一二号証であること、以上の各事実が認められ、これに反する証拠はない。

しかしながら、<証拠略>によれば、米軍が撮影した航空写真は、二台のカメラで撮影した写真をつなぎ合わたもので、撮影位置の点に関しても、必ずしも垂直に写したものとは断定できないこと、航空写真では一般に樹木等があると道路等はありのままには写らないこと、また写真を焼き増しによつて拡大する場合も、元になる写真を図面に写してその図面を拡大する場合にも、ある程度の誤差が生じ得ること、戦前からの側溝等が残存しているといつても、はつきりしているのは少なく、かついずれも一部分であるばかりか、本件土地内又はその直近隣接地に残存しているものはないから、それらだけで原形、とりわけ本件土地付近の原形を正確に復元することは到底困難であつたこと、そこで甲第一二号証の作成に際しては、旧県道の幅員がいくらであつたか、残存する橋の欄干の長さと旧県道の幅員とは一致するものかそれとも前者が短かいのか、残存している側溝は全て戦前からのものであるのか、別紙一(図面)の交差点の北東角の胡屋原一番の土地の南西隅における角度はいくらか、といつた事項について一定の結論を出さざるを得なかつたこと、そして、現実にも右事項を踏まえて甲第一二号証が作成されたのであるが、右事項の決定は本件土地付近の人々の記憶によらざるを得なかつたこと、しかもそれらの人はいずれも土地を縮少されるといつた不利益を蒙るおそれがないか又は逆に利益を得る立場にあること、以上の各事実が認められ、これに反する証拠はない。そうすると、甲第一二号証はその作成経緯に不確定な要素が多分にあり、それ自体に少なからぬ不正確性を含んでいるというべきである。ところで原告は、甲第一二号証によれば旧県道敷は別紙一(図面)の「道路」と表示された部分と一致するというのであるが、旧県道敷の真実の所在位置が仮に右「道路」と東西方向において約三メートルのズレがあるとすると、別紙一(図面)から明らかなように本件土地は旧県道敷上にはないことになるところ、甲第一二号証には前記のような不正確性があり、例えば甲第一二号証の作成に際して用いた一万分の一の航空写真が真実の状況と〇・三ミリメートル異なつた写り方をしていたというだけで、他の点が全て真実であつたと想定しても、既に三メートルの誤差が生じ得るということになるから、右の不正確性は本件のような狭い係争地の解明にとつては重大な障害になるといわざるを得ない。

また、前記二で認定したとおり、地籍訂正申告は甲第一二号証と同一の根拠に基づいてなされているわけだから、甲第一二号証に対する疑問として右で検討した諸点はそのまま甲にもあてはまるということができる。そればかりか、<証拠略>によれば、公図は訂正申告内容どおりに訂正されてはおらず、従来の線と訂正申告図記載の線が併記された状態にあることが認められ、これに反する証拠はなく、また<証拠略>中には、甲第一二号証は地籍訂正申告の際に既に作成されていたとうかがわせる旨の供述部分もあるが、前掲甲第五号証と成立に争いのない甲第一二号証の作成年月日欄によれば、後者は本訴提起後の昭和五〇年に、前者は一九六六年(昭和四一年)に各作成されたと認められるから、甲第一二号証の原図ともいうべき図面が訂正申告前に既に作成されていたという可能性はないわけではないものの、右訂正申告に際して甲第一二号証より詳細な図面は作成されていなかつたと推認され、これを左右するに足る証拠はなく、さらに前記二で認定したように、右訂正申告については地籍訂正により地積が減少する立場にある者の同意が得られていないわけであるから、原告主張事実に沿う記載のある甲第五号証には、甲第一二号証についての疑問点と同一又はそれ以上の疑問があるといわざるを得ない。

以上のように、本件土地の所有関係あるいは旧県道敷の所在場所を解明するため、その背景となつている前記二のような事実関係を踏まえて、原告主張事実に沿うか又はこれに反しない証拠を本項で検討したが、それらには本項各段で加えたような疑問点があり、かつ右各証拠を総合評価しても、右各証拠について存する前記疑問に照らすと、これらを総合して原告主張事実を認めることも未だできないといわざるを得ないし、他にこれを認めるに足る適確な証拠もない。もつとも反対に被告ら主張事実が存することを容易に予測し得るような証拠もなく、前記二で認定した事実関係と、本項各段で検討したところを総合すると、旧県道敷が本件土地付近において現況のどの位置に存したか或いは本件土地が旧県道敷上に所在するか否かについては本件全証拠によつてもこれを明らかにすることはできないというべきである。

四 以上説示したように、本件土地が原告の所有であることについては、これを認めるに足る証拠がないことに帰するので、その余の点に触れるまでもなく、原告の被告らに対する各請求はいずれも理由がない。そこでこれらをいずれも棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 喜屋武長芳 宮城京一 岡光民雄)

別紙一(図面) <略>

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